こんにちわ!英語とキャリア情報を発信しているもりぞー(@englishinform)です。
子供や友人が何か失敗した時に、既にやってしまったことはもう戻らないよと英語で言いたい時ありすよね?
そんな時は、覆水盆に返らずというフレーズを英語で伝えるのもいいでしょう。

この記事では「覆水盆に返らず」の英語での表現方法や例文を紹介していきます。
普段の会話でもさらっと使えるように練習していきましょう!
外国語大学の英語学科卒業。英検1級、TOEIC970点、TOEFL iBT107点取得。
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1. はじめに:文化を映す鏡としてのことわざ
ことわざは、時代や文化を超えて共有される人間の知恵や経験の結晶です。鮮やかな比喩を用いて、人生の真理や教訓を簡潔に表現します。しかし、その文化的な背景や歴史的経緯ゆえに、ある言語のことわざを別の言語で完全に同じニュアンスで表現することは、しばしば困難を伴います。それぞれの言葉が持つ独自の響きや連想は、直訳だけでは捉えきれない深みを持っているからです。
本稿では、日本のことわざ「覆水盆に返らず」(ふくすいぼんにかえらず)を取り上げ、その深い意味と由来を探ります。そして、このことわざが示す「取り返しのつかないこと」という普遍的な概念が、英語圏ではどのように表現されるのかを考察します。特に、「It’s no use crying over spilt milk」や「What’s done is done」といった代表的な英語の慣用句を分析し、「覆水盆に返らず」との間に存在する類似点と、見過ごされがちなニュアンスの違いを明らかにしていきます。本稿を通じて、言葉の背景にある文化や歴史への理解を深め、より豊かな異文化コミュニケーションへの一助となることを目指します。
2. 「覆水盆に返らず」:こぼれた水と断ち切られた絆
2.1. 文字通りの意味と比喩の情景
「覆水盆に返らず」は、文字通りには「盆(容器)からこぼれた水(覆水)は、元には戻らない(返らず)」という意味です。ここでいう「盆」とは、現代私たちが使うような平たいお盆(トレー)ではなく、水を汲むための素焼きの浅い鉢やボウルのような容器を指していたと考えられます。地面にこぼれてしまった水を、そのような器に完全に戻すことが不可能であることは、誰の目にも明らかです。この鮮明な情景が、ことわざの根幹を成す比喩となっています。
2.2. 中核となる意味:不可逆性
このことわざが示す中心的な意味は、「一度起きてしまったこと、一度してしまった行為は、もはや取り返しがつかず、元の状態に戻すことはできない」という「不可逆性」の概念です。それは、状況の最終性、決定性を強調する言葉です。
2.3. 由来:太公望(呂尚)の故事
このことわざの由来として広く知られているのが、古代中国・周王朝の功臣である呂尚(りょしょう)、後の太公望(たいこうぼう)にまつわる物語です。
若い頃の呂尚は貧しく、生計を顧みずに読書にばかりふけっていました。その生活に愛想をつかした妻は、彼のもとを去ってしまいます。しかし後年、呂尚は周の文王・武王に見いだされて軍師となり、殷王朝打倒に貢献し、斉(せい)の地に封じられるほど出世します。彼の輝かしい成功を知った元の妻が、復縁を求めて彼の前に現れます。
その時、太公望となった呂尚は、水の入った盆(容器)を持ってこさせ、その水を地面にこぼしました。そして元妻に向かい、「この水を盆の上に戻してみよ。もしそれができたなら、お前の望む通りに復縁しよう」と言い放ちます。当然、こぼれた水を元に戻すことはできません。太公望はそれを見て、「一度こぼれた水が二度と盆に戻らないように、私とお前の関係も、もはや元の関係に戻ることはありえないのだ」と述べ、復縁をきっぱりと拒絶したと伝えられています。
この故事は、後秦の時代(4世紀末頃)に成立したとされる『拾遺記』(しゅういき)などに記されています。
ただし、類似した話が前漢時代の朱買臣(しゅばいしん)という人物についても伝えられています。貧しい学者であった夫を妻が見限り、夫が出世した後に復縁を迫るが、こぼした水(あるいは他の比喩)によって拒絶されるという筋書きは共通しています。二人の異なる歴史上の人物に同様の逸話が付随している事実は、単一の歴史的事実というよりも、「一度壊れた関係、特に夫婦関係の修復不可能性」や「過去の選択の結果としての決別」というテーマが、文化的な物語の原型として繰り返し語られてきた可能性を示唆しています。太公望という著名な人物にこの物語が結び付けられたのは、その教訓に重みを与えるためかもしれません。このことわざが持つ深い文化的な響きは、単なる故事来歴を超え、人間関係における最終性という普遍的なテーマに根差していると言えるでしょう。
また、太公望は優れた軍師・政治家として尊敬される一方で、この故事においては、元妻に対して非常に冷徹な態度をとっています。彼の対応は冷静であるからこそ、強い拒絶の意志、あるいは怒りすら感じさせます。この点は、「覆水盆に返らず」という言葉が、単なる「不可能」を示すだけでなく、時には断固たる、場合によっては非情とも取れる「決別」のニュアンスを伴う可能性を示唆しています。
2.4. 意味の変遷と適用範囲
元々は、故事が示すように「一度離縁した夫婦の関係は元には戻らない」という意味合いで使われていました。しかし、現代ではその意味合いは大きく広がり、夫婦関係に限らず、「一度してしまったことは、もはや取り返しがつかない」という、より一般的な状況全般を指して用いられるようになっています。
この意味の広がりは、社会における夫婦関係や離婚に対する考え方の変化を反映しているのかもしれません。元々の文脈(壊れた人間関係)で使われる場合、ことわざは強い最終性や、時には非難、深い後悔の念を伴うことがあります。一方で、仕事上のミス、割ってしまったガラス、失われた時間など、より一般的な失敗や状況に対して使われる場合は、客観的な「不可逆性」の事実を指摘する側面が強くなります。それでもなお、何らかの結果や影響が伴うという含意は残ります。このように、その適用範囲の広さと文脈依存性によって、「覆水盆に返らず」は多様な状況で使われる一方で、その正確な感情的な重みは使われる場面によって変化するのです。
2.5. 日本語における使用例
以下に、「覆水盆に返らず」が日本語でどのように使われるかを示す例文をいくつか挙げます。
- 人間関係(本来の意味に近い用法):
- 「友人は元夫に復縁を迫っているが、彼は取りつく島もないそうだ。覆水盆に返らずとはこのことだ。」(離婚した関係の修復不可能性)
- 「傷つける言葉が原因で絶交した友人とは、いまだ仲直りできていない。まさに覆水盆に返らずだ。」(壊れた友情の回復困難)
- 「一度こぼれた水が二度と盆に戻らないように、私とお前との関係も昔のような元の関係に戻ることはありえないのだ!」(故事における太公望の言葉)
- 一般的な失敗・過ち:
- 「仕事で大きなミスをしてしまったが、覆水盆に返らず。挽回できるように力を尽くそう。」(済んでしまった失敗を受け入れ、前を向く)
- 「その失敗は覆水盆に返らず、私たちが今後の行動を慎重にするための教訓となった。」(過去の失敗から学ぶ姿勢)
- 「ガラスを割ってしまったが、覆水盆に返らずだ。」(物理的な損壊の回復不能)
- 失われた機会・時間:
- 「失われた時間は覆水盆に返らず、最善を尽くすしかない。」(時間の不可逆性)
- 後悔・反省の表明:
- 「覆水盆に返らずと彼は後悔の念を口にした。」(取り返しのつかないことへの後悔)
3. 英語における類似表現:「取り返しがつかない」をどう言うか
「覆水盆に返らず」が示す「不可逆性」という概念自体は、洋の東西を問わず普遍的なものです。しかし、それを表現することわざや慣用句は、文化や言語によって異なります。英語で「覆水盆に返らず」に相当する表現を探す場合、いくつかの候補が挙げられます。
中でも特に頻繁に引き合いに出されるのが、「It’s no use crying over spilt milk」と「What’s done is done」です。また、「What is done cannot be undone」なども、意味合いが非常に近い表現として挙げられます。
しかし、これらの英語表現が「覆水盆に返らず」と完全に同義かというと、そうではありません。特に注目すべきは、比喩の対象が日本の「水」に対して、英語では「ミルク」である点です。この違いは、単なる言葉の置き換えではなく、それぞれの表現が持つニュアンスや文化的背景の違いを示唆している可能性があります。
4. “It’s no use crying over spilt milk”:こぼれたミルクと無益な後悔
4.1. 意味と核心的なニュアンス
この英語の慣用句は、「すでに起こってしまい、変えることのできない不運な出来事について、嘆いたり、後悔したり、不平を言ったりしても無駄である、意味がない」ということを伝えます。
重要なのは、この表現が、出来事そのものの最終性(覆水盆に返らず)よりも、それに対する「感情的な反応(嘆き、後悔)の無益さ」に焦点を当てている点です。多くの場合、過去の失敗にくよくよせず、前向きな姿勢で次に進むことを促す目的で使われます。
4.2. 由来と語源
この表現の起源は、17世紀半ばに遡ります。記録に残る最も古い形の一つは、1659年にジェームズ・ハウエルが編纂したことわざ集に見られる “No weeping for shed milk.” (こぼれたミルクのために泣くことなかれ)です。当時の “shed” は「こぼれた」という意味の形容詞でした。ハウエルが既存のことわざとして記録していることから、実際の言い回しは1659年よりも前から存在していたと考えられます。
その後、”spilt” や “spilled” (どちらも spill「こぼす」の過去分詞形。現代では特にアメリカ英語で spilled がより一般的だが、どちらも使われる)を用いた形が定着しました。また、”It is no use…” の代わりに “There is no use…” や、より口語的な “Don’t cry over spilt milk.” という形もよく使われます。
なぜ「ミルク」が題材になったのか、その明確な理由は定かではありません。子供がミルクをこぼして泣いている様子や、かつて妖精への捧げ物としてミルクが使われており、こぼれたミルクは妖精への追加の捧げ物と見なされたため心配無用とされた、という説もありますが、これらは推測の域を出ません。
「覆水盆に返らず」の由来が、太公望という特定の人物と裏切り、拒絶といったドラマチックな物語に基づいているのに対し、「spilt milk」にはそのような強力な単一の起源物語が見当たりません。これは、おそらく日常的な観察から自然発生的に生まれた表現であることを示唆しています。この比較的地味な起源は、この慣用句が、太公望の故事が持つような深刻さや人間関係の決裂といった重いテーマよりも、比較的一般的で、感情的な負荷が少ない状況(日常の些細な失敗や不運)に対して使われる傾向があることと関連していると考えられます。比喩自体(ミルクというありふれた、しかし失われやすいもの)も、取り返しはつかないものの、比較的小さな損失という感覚を補強しています。
4.3. 用法と文脈
この慣用句は、主に、過去を悔やんでも仕方がないような、比較的小さなミス、事故、失望に対して使われます。多くの場合、失敗した相手を優しくたしなめたり、くよくよせずに前向きな気持ちで問題解決や未来に目を向けるよう励ましたりする響きを持っています。
以下に英語での使用例を挙げます。
- “I know you’re disappointed that we missed the deadline, but there’s no use in crying over spilled milk. Let’s figure out how to fix it.” (締め切りに遅れたことを悔やむより、解決策を探そう)
- “She failed the exam, but there’s no use crying over spilt milk.” (試験に落ちたことを嘆いても仕方ない)
- “Well, there is no use crying over spilt milk. We can have another key cut, and I’ll give you some more money.” (鍵やお金を失くしたことを嘆いても仕方ない、代わりの手段はある)
- “After the argument, she told herself it was no use crying over spilt milk and tried to make amends.” (口論の後、悔やむより仲直りを試みた)
- “It’s no use crying over spilt milk – it was a bad investment, the money has been lost and there’s nothing we can do now.” (失敗した投資について嘆いても仕方ない)
- “My kids were upset because they had burnt their toast, but I told them that it’s no use crying over spilt milk and to just make some more.” (焦がしたトーストを嘆くより、作り直せばいい)
5. “What’s done is done”:変えられない過去の受容
5.1. 意味と核心的なニュアンス
この表現は、「ある行為や出来事が完了し、終了し、もはや覆すことができない」という事実を認め、「過去は変えられない」という諦念や受容を示すものです。強調されるのは、過去の行為そのものの「最終性」と「変更不可能性」です。
5.2. 由来と語源
このフレーズが広く知られるようになったのは、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『マクベス』(Macbeth) によるところが大きいとされています。第3幕第2場で、マクベス夫人(Lady Macbeth)が夫マクベスに対し、ダンカン王殺害後の後悔や不安にとらわれる夫をいさめる際に、”Things without all remedy / Should be without regard: what’s done is done.” (どうしようもないことは、気にかけても仕方がない。済んでしまったことは、済んでしまったこと)と語ります。
ただし、シェイクスピアがこの表現を創り出したわけではなく、14世紀初頭のフランスのことわざ “Mez quant ja est la chose fecte, ne peut pas bien estre desfecte” (しかし、事がすでに為されたならば、それを元に戻すことはできない)に由来する可能性や、ソポクレスなど古典文学からの影響も指摘されています。
『マクベス』におけるこのセリフの文脈は、王殺しという重大な罪、それに伴う罪悪感、野心、そして後戻りできない破滅的な結果といった、非常に重いテーマを含んでいます。この劇的で道徳的に深刻な起源は、「What’s done is done」という表現に、「spilt milk」よりも大きな重みや深刻さをもたらす可能性を与えています。日常的な状況にも使われますが、その出自ゆえに、人生を変えるような重大な出来事や、厳しい現実を受け入れるしかないような状況をも包含できる力を持っています。この点は、「覆水盆に返らず」が持つ「最終性」の側面に、「spilt milk」よりも近いと言えるでしょう。ただし、その焦点は個人的な裏切りよりも、過去が客観的に変更不可能であるという事実そのものに置かれています。
5.3. 用法と文脈
この表現は、過去の出来事を受け入れ、それについてくよくよ考えたり議論したりするのをやめ、前に進む決意を示す際によく使われます。口調や状況によっては、諦め、現実主義、あるいは運命論的な響きを帯びることもあります。
以下に英語での使用例を挙げます。
- “He realized his past errors, but what’s done is done.” (過去の過ちを認識したが、済んだことだと受け入れた)
- “After the failure, he reminded himself that what’s done is done and focused on his next project.” (失敗の後、済んだことだと自分に言い聞かせ、次の計画に集中した)
- “What’s done is done, we’ll have to learn from it and move forward.” (済んだことは済んだこと、教訓を得て前に進むしかない)
- “I forgot to include my dividend income in my tax return but what’s done is done—I’ve already mailed the form.” (税務書類提出後に所得の記載漏れに気づいたが、もう済んだことだ)
- “We lost the third match in a row. What’s done is done. Let’s get ready for the next one.” (試合に負けたが、済んだことだと切り替え、次に備える)
6. ニュアンスの比較
6.1. 直接比較
これまで見てきたように、「覆水盆に返らず」、「It’s no use crying over spilt milk」、「What’s done is done」は、いずれも取り返しのつかない過去の出来事について言及する点で共通していますが、そのニュアンスには重要な違いが存在します。
6.2. 比較表
これらの違いをより明確にするために、以下の表にまとめます。
特徴 | 「覆水盆に返らず」 | “It’s no use crying over spilt milk” | “What’s done is done” |
---|---|---|---|
核心的な強調点 | 出来事・行為の不可逆性、最終性 | 過去の出来事に対する後悔・感情の無益さ | 過去の変更不可能な状態の受容 |
由来の文脈 | 壊れた夫婦関係、裏切り、厳しい拒絶 | 一般的な不運、「こぼれたミルク」(日常的/子供の失敗の可能性) | 殺人、罪悪感、重大な行為の不可逆的な結果(マクベス) |
典型的な深刻度 | 高い場合(人間関係、重大な失敗)も一般的 | しばしば低い(日常的なミス、小さな失望) | 中程度から非常に高い場合まで(重大な行為/出来事) |
示唆される感情 | 諦念、時に後悔、非難、冷徹な最終性 | 励まし、現実主義、穏やかなたしなめ | 受容、諦念、時に運命論、現実主義 |
文化的な比喩 | 水(根源的、基本的要素) | ミルク(日常的、栄養、ありふれた損失) | (抽象的な行為/出来事) |
6.3. 違いの詳細分析
- 焦点の違い: 「覆水盆に返らず」は、出来事が「不可逆である」という状態そのものを強調します。「Spilt milk」は、その状態に対する「感情的な反応(後悔)が無益である」ことを強調します。「What’s done is done」は、その状態を「受け入れる」という態度を強調します。
- 感情的な重み: 太公望の故事は、「覆水盆に返らず」に、特に人間関係において、重く、個人的で、時には冷たい最終性をもたらす可能性があります。これは、一般的に軽く、より現実的な「spilt milk」の感覚とは対照的です。「What’s done is done」は、そのシェイクスピア由来の背景から、重大な結果を受け入れることを示唆する、かなりの重みを持つことがあります。
- 深刻度: 使われ方は重なりますが、「spilt milk」は他の二つが含む可能性のある深刻な状況よりも、比較的軽い状況に使われる傾向があります。「覆水盆に返らず」と「What’s done is done」は、より重大な出来事の最終性を伝えるのにより適しています。
- 文化的な比喩: 水とミルクの違いは示唆に富みます。水の根源的な性質は、日本のことわざにおける絶対的で変えられない現実感を強めているかもしれません。一方、ミルクの日常性は、英語の慣用句を、より日常的な、それほど深刻ではない損失と結びつけている可能性があります。
7. その他の関連慣用句
「覆水盆に返らず」のニュアンスを英語で表現しようとする際、「spilt milk」と「What’s done is done」以外にも、関連する慣用句が存在します。これらを理解することで、表現の幅が広がり、主要な二つの慣用句のニュアンスがより明確になります。
- “What is done cannot be undone”: 「What’s done is done」とほぼ同義ですが、ややフォーマルな響きがあります。逆転の不可能性を強調します。
- “There’s no turning back”: ある決断や行動の後、後戻りできない地点に来てしまったことを強調します。特定のコミットメントに関連して使われることが多い表現です。
- “Let bygones be bygones”: 過去の過ちや不和を水に流して、関係を修復し前進することを意味します。「覆水盆に返らず」の本来の意味(決別)とは異なり、和解を含意します。
- “You can’t unring a bell”: 一度口にした言葉や公になった情報など、撤回できない事柄に対してよく使われます。
- “The die is cast”: 「There’s no turning back」に似ていますが、より運命的で決定的な、後戻りできない一歩が踏み出されたことを示唆します(カエサルのルビコン川渡河に由来するとされることが多い)。より劇的で歴史的な響きを持ちます。
- “It’s all water under the bridge”: 「Let bygones be bygones」に似ており、過去の問題はもはや重要ではないことを示唆します。
これらの表現は、それぞれ独自のニュアンスを持っているため、文脈に応じて使い分けることが重要です。
8. 結論:言語と文化のギャップを埋めるために
本稿では、日本のことわざ「覆水盆に返らず」の意味と由来、そしてその英語における主要な対応表現である「It’s no use crying over spilt milk」と「What’s done is done」を比較分析しました。
これらの表現はすべて、過去の出来事が取り返しがつかないものであるという共通の核を持っていますが、そのニュアンスは決して同一ではありません。「覆水盆に返らず」は、その故事来歴から、特に人間関係における冷徹なまでの最終性や、重大な失敗に対する諦念といった重みを帯びることがあります。一方、「It’s no use crying over spilt milk」は、日常的な失敗に対する後悔の無益さを説き、前向きな姿勢を促す、より穏やかな響きを持ちます。「What’s done is done」は、シェイクスピア劇の重厚な文脈を背景に持ち、変えられない過去に対する受容や諦念を、時には深刻な状況においても表現します。
水、ミルク、そしてマクベスの劇的な行為といった比喩や由来の違いは、後悔、最終性、そして過去との向き合い方に対する文化的な視点の一端を垣間見せてくれます。完璧な一対一の翻訳が存在しないからこそ、これらの表現の背景にあるニュアンスを理解することは、言語の壁を越えたより深いコミュニケーションと、異文化への敬意ある理解につながるでしょう。ことわざや慣用句は、単なる言葉の集まりではなく、文化そのものを映し出す鏡なのです。
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